読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大正式散歩。『古本とジャズ』植草甚一

角川発刊の『ランティエ叢書』というアンソロジー本のシリーズの中の、植草甚一

 

自分の散歩は「大正式散歩」だと語っているところがよかった。

自分は大正生まれの人間だから、ゆっくり歩く。永井荷風など明治の人間は「明治式散歩」で、もっと遅かったはずだ。最近の人間は、どんどん歩くのが早くなっている。

 

このあいだ、経堂を散歩した。経堂は植草甚一が住んでいた街だそうだから、読後感を引きずって行ってみたんだ。目的地を成城学園前駅に決めて、そこへの最短ルートをグーグルマップで調べて、何かと競うように、何かに追われているように急ぎ足で歩いた。ずっと何かを思い詰めていて、周りの街並みを見る余裕はなかった。道を間違えてイライラしたりしていた。そんな馬鹿げた散歩をしているときに、上の一節をふと思い出した。示唆を与えられた気がした。

ゆっくり歩くと、周りの景色がよく見えるようになった。梅の花、何枚も干された白いシーツ、野菜直売所のおばさんが使っていた相当古い型の電話(大きな金色の受話器を壁に掛けるようなタイプ)、手作り感溢れる「この先行き止まり」の看板(誰かが親切で設置したのだろうか?)。

そういうものを見て回るのは、気持ちのいいことだった。

 

【本】『フィッシュ・オン』開高健

開高健が世界中をめぐって魚釣りをする。

「人間の不幸は部屋のなかにじっとしていられないことから来る」というパスカルの言葉を開高健はしばしば引用する。原因の見えない焦燥が、小説家を旅へと連れ出す。

...私は毎日、窓ぎわでウイスキーを飲みつつ、スモッグで腐って硫酸のようになっている低い夕空を眺め、原民喜の本を伏せてしまい、アラスカへ行こう、アラスカの荒野の川でサケ釣りをしよう、と思いつめていた。

逃避としての、GREAT ESCAPEとしての魚釣り。その本質はどこにあるか。

白い雲がそびえている。美風がそよぐ。陽が閃く。汚物が流れる。水が流れる。浮子を流しては投げ、流しては投げしながら、私はぶどう酒にくたびれて軟らかく重くなった腸を感じ、水の揺らめきを眺める。(中略)流れる水に私が魅せられるのもそのうごきからである。うごかない水は私をほぐし、解放し、遊ばせてはくれない。それがさそいだす連想に私はなじみすぎている。閉塞に疲れている。目のたわむれが清浄でのびのびしたうつろさをもたらしてくれる。虚無にしばらくの自由と調達があらわれてくる。目は紋があらわれるのを追っていき、消えるのを見とどけ、ふたたび同じ地点にたちもどる。その往復が単純なので、心は眼のままにうどくことができる。生を流れる川のかつ消え、かつあらわれて耐えることのない水泡に擬した隠者は無情迅速を説きながら実は明晰な、充溢した愉しみをおぼえていたのではあるまいか…

ほかに、魚が掛かった瞬間の沸騰、凝集の描写も引用したかったが、箇所が見つからないのでやめた。つまりは「忘我」なのである。流れる水と消えては現れる波紋。そこに”私”はない。ここまで書いてふと、開高健が、ーおそらく後期の作品を中心にー 一人称を一切使わずに文章を書いていたことを思い出し、それが妙に腑におちた。

【映画】『シング・ストリート』『はじまりのうた』ジョン・カーニー

完全にジョンカーニー監督のファンになってしまった。これまで、好きな映画監督と言える人はあんまりいなかったけど、この人は、今後の作品も追い続けようと思えるような監督だ。「信頼できる」映画監督だ。

 

『シング・ストリート』は飯田橋ギンレイホールで観て、その三週間後くらいに川越のスカラ座でまた観た。同じ映画を映画館で二度観るのは生まれて初めて。それくらい良かったのだ。

 何よりも、「共感」があった。物語のエピソードに対する共感。主人公に対する共感。両親の口論の声が階下から聞こえてきて、それをかき消すためにギターを鳴らす。そんなシーンを観ると、涙ぐんだ目でニヤつきながら「あるある」と言いたくなってしまう。(『はじまりのうた』にも同様のシーンが出てきた。おそらく監督の実体験なのだろう。)

少年は、外界の音を遮断するために音楽を必要とした。自己防衛の手段としての音楽。断じて不純な動機ではない。むしろ、音楽のそういう性質の中に、音楽の真実があるような気がするのだ。

そういう共感が根底にあるものだから、作品の直球すぎるほど直球な希望のメッセージも、抵抗なく受け入れられる。荒波の中を漕ぎ出すのだ。後ろを振り向かずに。

 

『はじまりのうた』は、冒頭の演出にやられてしまった。友人に無理やりステージに上げられ、気が進まないままに、電車自殺の歌をうたう若い女。ドン引きする観客の中でひとり感動の涙を流す、薄汚れた格好の中年男。回想シーンが始まり、その背景を明らかにしていく。その手法の鮮やかさに、一気に引き込まれる。そして、女の歌を聴いているときの、男の脳内イメージの描写だ。あれは素敵だ。男の音楽への愛が伝わってくるし、何より音楽自身の持つ「喜ばしさ」みたいなものが詰まっている。

二人がイヤホンのスプリッター(分配器)で同じ音楽を聴きながらニューヨークの街を歩くところも良かった。「音楽はありふれた景色をロマンチックなものに変える。」その通りだ。思うところあってイヤホンを付けることを自分に禁じているが、久々に音楽を聴きながら散歩をしてみようか。

 

お尻がむずむずし始める。何かしたい。映画に火を付けられた。

【本】『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック

旅ができないから旅の本を読む。

1960年のアメリカを、58歳のスタインベックと愛犬のチャーリーが、キャンピングカーで旅をする。

 

このチャーリーとの旅について、「自分の国の真実を探して旅に出て、答えを見つけた」と語ることができたらどんなに気持ちがいいことだろう。そうしたら自分の発見したことを書き記すのは簡単だし、真実を発見して読者に教えてやったのだと思って気分よくふんぞり返っていられる。そのくらい簡単だったら良かったのだ。

しかし私の頭で覚えたりもっと深い感覚に刻んだりしてきたものは、絡み合った無数の虫みたいなものだ。ずっと以前に海洋生物の採取と分類に取り組みながら悟ったのだが、何を見つけるかはそのときの気分に深く影響されるものなのだ。自分の外部の現実であっても、突き詰めれば自分の内部と繋がりを持っているものである。

旅の中で見る風景というのは詰まるところすべて心象風景なんじゃないかという考えには身に覚えがある。アメリカの豊かさと貧しさ、希望と不安、変化と伝統、州毎の違いと共通点。そういったものに対するスタインベック老の心象風景が描かれる。今の日本にも繋がるような闇を見てはっとする瞬間もあるけれど、基調となっているのは優しさだから、ほのぼのとした気持ちでページを繰ることができる。それでいて、旅の本質について鋭く描き出している。

旅人が帰宅する前に寿命が尽きて終わってしまう旅があることは、きっと誰もが知っているのではないだろうか?

(中略)私自身の旅はというと、出発よりずっと前に始まり、帰宅する前に終わった。

旅が終わった場所も時間もしっかり覚えている。ヴァージニア州アビントン近くの急カーブで、風の強かった日の午後四時だ。前触れもなく別れの挨拶もキスもなく、旅は私からさっていってしまった。私は家から離れた場所で取り残されてしまったのだ。

私は旅を呼び戻して捕まえようとしたがー愚かで無駄なことだった。旅が終わり、もう戻ってこないのは明らかだったのだ。道は延々と続く石の連なりとなり、丘は障害物となり、木々は緑色の霞となった。人々はただの動く影となり、頭はついていても顔はないのと同然だった。道沿いの食べ物はどれもスープのような味しかしなかったし、実際にスープだって構わなかった。

ううむ。

「人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ」。

 

ところで、第三部第一章以降の文章は、それまでとはうって変わって怒りと悲しみに満ちている。スタインベック老は、ニューオリンズでの人種差別の現場を見てきたのだ。チアガールズ(黒人生徒が白人生徒と同じ学校に通うことに抗議して、黒人生徒に罵声を浴びせるおばさん集団)の姿に怒りと憎しみを隠すことができないが、彼女らを「悪」だと断ずる一歩手前で、立ち止まってしまう。そこにあるのは、罪の意識(アメリカの歴史を考えると、自分も加害者なのではないか?他人を捌ける立場にあるのか?)と、そして、人生の不条理に対する悲しみのように思えた。

レイプの疑いを持たれるのを恐れて、転んだ白人女性を助けなかった黒人青年は「私は黒人であることになれてしまってるんです」と言った。このときの青年の「傷ついてなさ」に、スタインベックはひどく傷ついてしまったのではないか。

【本】『働くことがイヤな人のための本』中島義道

この本の何よりもいいところは、斎藤美奈子の解説を載せているところだ。中島義道の思想にまったく共感しない、共感したくもない立場としての解説だ。それを載せてくれているところが素晴らしい。読み進めていくうちに、中島義道節にどんどん引き込まれていって、読後にはちょっと過剰なほど感傷的になっている心に、「マジレス」をしてくれる。ニュートラルな気持ちで考えを整理するきっかけをくれる。

…『働くことがイヤな人のための本』はまさに「一億総中流化」が進んだ成熟社会ならではの「お悩み相談」の本なのです。しかし、著者は歴史的・社会的背景なんてよけいなこと(わたしには重要なこと)は無視し、あくまでもそれが普遍的・根源的な悩みであるかのようにふるまいます。

この本がグチャグチャして見えるのは、社会のしくみの話ぬきで社会との接し方について語ろうとする、その根本的な矛盾に由来するように思います。

 

私は何故生きているのか、何故死ぬのか、生きるとは、死ぬとは、というような、人間の「根源」に関する問いは、はたして人間にとって「根源的」なのか?哲学の起源と言われる古代ギリシャだって、ギリシャ人の中でも極一部の豊かな「自由市民」のうちの、そのまた極々一部の人間が、日常の仕事を奴隷に任せてできた「暇」でもってそういうことを考え始めたのであって、当たり前だが当時のギリシャ人がみんな哲学をしていたわけではない。それ以降の時代から現在にいたるまで、一体どれだけの人間が、哲学的・形而上的なことを考える「暇」(「自由」と言い換えてもいい)をもっていたのかと考えると、うーむ…と唸らざるを得ない。

 

キミが普段頭を悩ませ身を焦がしている、「何故生きるのか」、「何故死ぬのか」みたいな哲学的な問題は、文明の高度な発達によって生じた「暇」がもたらした、人類史的にみても極めて特殊な、現代的な、豊かな国の悩みなのであって、キミはそんなことに頭を煩わせる必要なんてないんだ。

そう言われてしまうと、しかし、それも違うんである。「考えちゃってるんだからしょうがない」。これに尽きる。こういう悩みが、限られた時代の、限られた社会の悩みであったとしても、自分の置かれた状況がその「限られた」に該当しちゃってるのだから、そして現にそういう悩みと出会ってしまっているんだから、それを取るに足らないとうっちゃるべきではない。というか、したくてもできないのだ。一度目が合ってしまったら、もう二度と目を逸らすことはできないのだ。

 

そういう意味で、中島義道の下のような決意は、自分には陶酔的な決意がこもったパンチラインとして響いてくるものがある。

三〇歳で大学院から追い出され予備校教師に納まったころ、「自分に哲学が与えられなければ、ほかに何が与えられても虚しい」というようなことが、日記に何度も書いてある。

…何度も「これでいいのか」と自分に問いかけ、「これでいい」と答えてきた。「地獄に堕ちてもこれでいい」と答えてきた。この世のほかのすべてが与えられてもこれが与えられなかったら自分は満足しないであろう、これさえ与えられれば満足だろうと自分に誓った。

「これさえあれば、他のすべてがなくてもいい」と思えるような何かが、自分にはあるのか?そういう人生を夢見て、その「何か」を捏造し、決意を模倣することに必死になっていただけではなかったか?

朦朧となってしまう。

 

喫茶店で読了した帰り道、冷静になった頭で反芻したら、直感めいたものが頭に浮かんだ。

一つの目的のために、それ以外のすべてを手段と割り切ることもできず、かといって一つの目的なんてものを否定して、目を外にだけ向けて生きていこうという決意もできない、そういう中途半端な人間は、そのどちらをも引き受けて生きなければならないんじゃないか。「生きること」を考えることも、「生活すること」を考えることも諦めてはいけないんじゃないか。どちらに対しても真摯であり続けるべきなんじゃないか。中島義道の言うことにも、斎藤美奈子の言うことにも共感し、それでいてそのどちらになることもできない人間の生き方は、そうあるべきであり、またそうあるしかないんだと思った。

【本】『極北に駆ける』植村直己

小岩の古本屋に入って、なんだかいい古本屋だったので、記念に何か一冊買っていこうと思って手に取った。100円。

 

たまにこういう本を読むべきだと思った。驚き、興奮より先に、癒される思いがした。北極の極限的な自然と格闘する植村さん。そこにあるのは間違いなく生死をかけたサバイバルなのだけど、一方で、ある種の軽みというか、ユーモアというか、そういうものが感じられた。何故だろうかと考えると、もちろん文章から滲み出る植村さん自身のやさしさもあるんだろうが、何よりも、このサバイバルが本質的に「遊び」だからだ、という気がする。命を賭けた遊び。命を賭けた世界との戯れ。それは決して嘲笑を呼び起こすようなものではなく、むしろ、羨望、尊敬、こうありたいと思えるような世界への向き合い方なのだった。

 

世紀の壮挙「北極圏一万二千キロ」を望みつつ、心やさしく誇り高いエスキモーとの交情を深めながら生肉を食い、生死の間をさまよい、果てしないグリーンランドの大氷原3000キロに犬橇を進める冒険野郎ウエムラ!

本に挟まっていた帯の広告文。「冒険野郎」という表現のために書き写した。まさに、だ。

 

あとは、気に入った箇所も書いておく。、エベレスト登頂のためのトレーニングをしていたときの回想。

私は高度四〇〇〇メートルの山道を、登山靴をはいて毎日六キロ走り続けた。峠のうえに出ると雪をいただいたエベレストの頂上が見える。もし一日でも、私が苦しい、つらいという理由でマラソンをおこたったら、エベレスト登頂はない。チャンスもない。私はそう心に言い聞かせて走り続けた。結局私はエベレストの山頂に立った。このマラソンがなくてもチャンスはきたかもしれないし、登頂もできたかもしれない。しかし私はこの訓練なしに登頂を考えたくはない。

この訓練なしに登頂を考えたくはない。素晴らしき克己。美しき自己満足。この人の偉大さは、この自己完結的な「遊び」の精神から来ている気がする。

【本】『珠玉』開高健

宝石を題材にした開高健の小説。

 

...交通事故があったらしく、二台の自動車が大破したままでからみあっている。ガラスの細片が水晶の粉のように散乱し、血が何滴か光っている。発生してからちょっと時間がたったところらしくて、車体、タイヤ、ガラス屑など、すべてが形の内部に閉じこめられてうずくまっている。

このあたりがいい。ナチスの「水晶の夜」を想起させなくもない。開高先生もどこかで言及してた。ナチスは自分たちの所業を美化させることに関しては天才的だった、ということの一例として。

形の中でうずくまっているモノ。それが生を帯びて、動き出す瞬間を捉えるのが、開高文学なんでは。『夜と陽炎』を読んだ後だけに、余計そう思う。

 

(上の続き)夕刻の暗みがかった光のなかで血の滴だけが生のままで輝いているが、あとしばらくで形の中へ引揚げることだろう。どの滴も中心が暗く、深く、濃くて、ガーネットにそっくりだけれど、匂いがたつほどおびただしくはないので、凶々しさが淡い。

血の輝きを見て、ガーネットを思い出す。あらゆる事物を、ガーネットの比喩として見てるような感じだ。逆に、ガーネットを見ることで、色々な光景やイメージを想起するということもある。曰く、「心に核ができる」。

そういう、心の核としての宝石。わかるような気がする。実際は、宝石でもなんでもない何かが、その核の役割を持っていたりするんだろう。それが何かは自分でも分からない。