【本】 『夜と陽炎 耳の物語❇︎❇︎』開高健
ごぞんじ開高先生の自伝本。上下二巻のうちの下巻。
やはり開高健にとって、ベトナム戦争は決定的な転機だったんだ。
開高健の目線は、ずっと自身の内面に向けられてきた。自身を凝視してしまうことによる病。それが、ベトナム戦争への従軍によって、外側へと向けられるようになる。
戸外へ出た瞬間に雨上りの亜熱帯の、恋する女の掌のようにしっとりとしてむっちりあたたかい、清潔そのものの空気が肺になだれこみ、海底からいきなり海上にとびだしたようで、よろめくほどだった。
この辺りの開高健の変化について、巻末の三浦雅士の解説が面白かった。
『輝ける闇』のなかで起こったことは、じつは、この体験(すべてのものがよそよそしく感じられる、サルトルの『嘔吐』的な体験)の正確な反転なのだ。そう考えるとよくわかる。一方が、あらゆるものを無生物のように見る体験であったとすれば、他方は、あらゆるものを生物のように見る体験であった。
あらゆるものを生物のように見る。あらゆるものが生物のように見えてくる。そのエネルギー。そのパワー。ベトナム戦争を経験して、開高健はそういう世界を、そういう外界を見つめるようになった。
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午後の三時。いたたまれなくなって席をたち、階段をおりて、歩道へ出ていき、いいかげんな喫茶店へいって、コーヒーをすすったり、甘ったるいケーキを食べたりして、眼をそらすことにふける。しかし、喫茶店から出てオフィスにもどるとき、直視の鋭さは避けられたとしても、いやらしい後味は残っていて、どこまでもつきまとってくる。一生、こうなのか。ただ繰りかえすだけなのか。昼のうちは会社でたわごとを書くことにふけり、夜はバーでぐずぐずしたあと家にもどって本を読むだけなのか。それで終わっちまうんだな?
今の自分にはすごくタイムリーな文章。開高先生もこういうことを考えていたのかと、何故か嬉しくなった。尊敬できるし、共感もできる。だから開高先生の文章は信頼できる。
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開高健の、奥さんと娘について。
これまで何冊か読んできたが、極端に記述が少ないので、妻子に対してどういう思いを持っているのか、ずっと気になっていた。奥さんと娘に、海外放浪ばかりで家を放ったらかしにしていることを糾弾されたエピソードが出てきた。開高健が、人の不幸は家を出たくなることだ(だったかな)という格言を引用するとき、その「家」の中には妻と子供が含まれていたように思える。とはいえ、人が旅にでるのは帰る家があるからだと長渕剛も言っていたし、妻子への愛は間違いなくあったはずだ。はしゃぎ回る幼い娘の姿をみて、この子がいつか人生の闇と出会ってしまうときがくるのかと想像して哀しくやりきれなくなってしまう、という描写もあった。それも愛ゆえだもんなあ。
【本】『人生逃亡者の記録』きだみのる
開高健センセイが名文家として尊敬していたという。
「いい文章を書く秘訣は?」という質問に「セックスを横向きですること」と答えたというエピソードからして、タダモノじゃない。
きだみのるの文章にぶつかってみた。
1895年生まれ1975年没。
幼少期は鹿児島で育ち、その後台湾、そして東京。
鹿児島の中学時代のエピソードに驚いた。
「尻突き」、いわゆる「釜掘り」が男子学生の性欲処理として常習的に行われていたという。
鹿児島の上流階級の子弟が通う学校だから、「武士の文化」としてそういう風習が残ってたんだとか。
これが100年ちょっと前のはなしだもんなぁ。
この本は自叙伝で、作者である「おまい」が自分の人生への態度ー「人生逃亡者」として生きるーを決めるまでの過程に焦点が当てられている。
東京での学生時代に、自殺未遂をしている。
その方法は、ボートで海に漕ぎ出して、友人の机の中から盗み出してきたコカインをブランデーで飲む、というものだった。
この死に方の選択が「人生逃亡者」らしいと思った。
ロマンチックなんだ。
それでいて絶望してるんだ。
開高センセイにもそういうところがある。
本の最後に、長生きすることだ、と言っている。
もう一度繰り返そう。長生きすることだ。
そうすれば、新地獄・極楽の布教者たちのそのときどきの所論の適否、正誤がわかるだろう。
そして現役の人間としてくたばることだ。
そうしたら子供の世話になるという屈辱的な考えを起こさずにすむ。
子供は子供。
親は親だよ。
そうだろう。
「逃亡」とは「自由」であり「自立」であるのか。
おれが望んでいるのも、そういう種類の「逃亡」なのか。
【本】『猫楠ー南方熊楠の生涯』水木しげる
引越す部屋の片付けをしている。
本を処分しようと思って仕分けをするが、これがなかな難しい。
まだ読んでいない本は、基本的に持って行く。
一度読んだ本の場合は、手元に置いておきたいというものは持って行き、それ以外は処分する。
しかしこの、「手元に置いておきたい」というのが曲者で、読んで面白かったという記憶はあるけど、内容はあまり覚えてないという本がほとんどなんだ。
そういう本はどうも捨てづらい。
それでいて、取っておいたとしてもたぶん再読はしない。
この問題の解決策として、やっぱり読んだ本の感想を書いていこうと思う。
簡単に。嫌にならない範囲で。
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南方熊楠。
みなみかただと思っていた。
みなかただった。
中沢新一あたりの本でその天才・奇才は聞きかじっていたけど、実際どういう人だったのか、何をした人なのかはよく知らなかった。
粘菌の研究ってなんだよ?
最近個人的に注目している水木センセイが、丁度いい伝記漫画を描いてくれていた。
このマンガから、二人の共通点みたいなものがぼんやりと見えてくる。
「あいだ」というもの、こと。
生と死のあいだ。
この世とあの世のあいだ。
昼と夜のあいだ。
自分と他人のあいだ。
そういう「あいだ」にいるのが粘菌であって、妖怪なんでは。
そしてそういう存在は、西洋的な「科学」や「理性」では捉えきれないものなんでは。
語り手である猫の猫楠が「自然は一つにつながった全体のことだ」と言ってたのが印象的だった。
その「全体」にナイフを入れて分割するのが「理性」であり「科学」であって、そうやって分割することで人は自然を理解している。
その分割が揺さぶられたとき、分断面の揺らぎのなかに、妖怪が現れてくる。
彼は誰時に妖怪は現れる。
粘菌の研究については、結局よく分からなかった。
【映画】『この世界の片隅に』
今年は今までにないくらいたくさん映画を観に行っている。
新作映画は、園子温の『ひそひそ星』からはじまり、『シン・ゴジラ』、『君の名は。』、『ハドソン川の奇跡』。
あとは名画座で、『団地』(阪本順治)と『海よりもまだ深く』(是枝裕和)の二本立て、そして『㊙︎色情エロ市場』(田中登)と『仁義の墓場』(深作欣二)の芹明香特集二本立て。
館で映画を観ることのよさを再認識・・・というか、はじめて知ったかもしれない。
そのきっかけは、なんといっても『シン・ゴジラ』だ。
素晴らしい映画だと思った。
あの映像。あの音楽。
そして何より、時代の空気をしっかりと受け止めて作られてる。
映画館で観た映画でいうと、生涯ベストといっていいんじゃないか。
そのくらいよかった。衝撃を受けた。
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好きなブロガーさんが紹介していて興味を持ったのがきっかけで、『この世界の片隅で』を観に行った。
豊島園のユナイテッド・シネマ。
観終わった。そして帰った。
今年観た他の映画は『シン・ゴジラ』も含め、たいてい観終わったあとで、Youtubeに上がっているラジオ評論(たいてい宇多丸師匠、たまに町山さん)を聞いている。
自分の感想と照らし合わせながら、そうそうと頷いたり、ほほうと感心したりして評論を聞くのが楽しいんだ。映画一本で二度おいしい。
でも、『この世界の片隅に』に関しては、タマフルも町山さんも聴いていなくて、Youtubeに「はいよ!お待ちかねのやつ!」的にレコメンドされても、「いや、まだ聴かないでおく」とうっちゃっている。
なぜだろう。
自分があの映画を観て考えたこと、感じたこと、「まだ言葉にはなっていない何か」を受け取ったこと。
そういうものを大事にしたいと思っているのかもしれない。
例えば凄い小説というのは、読んだその時は漠然とした感動だけが残って、何故自分が感動しているのか分からないということになるけれど、その後人生のさまざまな場面で顔を覗かせて、「あ、あの小説のあの一節はこういうことを言ってたんだ」とその感動の意味を突然気付かせたりする。
そういう、自分の中で時間をかけて育って行くような作品。
そういう作品だぞこれはと思ったから、ひとの評論や感想をまだ見たくないし、また同じ理由で、自分の感想をまだはっきりと書くことができないでいる。
ひとまずは一個だけ、感動したシーンのことを書いておく。
主人公のすずが、隣組のおばちゃんに教わった料理を作っているシーン。
作ってるのは、ふやかして嵩を何倍にもしたスカスカのご飯だったり、家の周りに生えている雑草で作ったおひたしだったりする。
そういう料理を作りながら、すずがすごく楽しそうなんだ。
これには参った。
生活を楽しむことが、人間の強さだと思った。
食べたり、もんぺを誂えたり、絵を描いたり、そういうことを「楽しくやる」ということの、すさまじい強さ。
強くて、そして、とても美しいものを見ていると思った。
それで泣いちゃった。
窓をあけといてほしい
ブログ。
こんな、発信すべき情報をなにひとつ持ち合わせていない人間が、なぜブログなんてものを始めるんだ。
これはもう完全に、自分のためである。
ものを書くことによる発見、発展、拡大、拡張、記憶、記録、反省、反復、そしてなにより、自分自身への癒し。
そのためのブログなのだ。
そんなもの、日記かチラシの裏にでも書いてろ、と。
人様の目につく可能性が1ミリでもある、こういうところに掲げる必要がどこにあるんだ、と。
そう言われてしまったらどうしよう。はっきりとした返答ができない。
ただちょっと思っているのは、上に書いたような発見、発展、etc、etc...は、日記のような自己完結からは得られないんじゃないか、ということ。
じっさい、これまで日記のようなノートのような何かを書いていた時期があったけれど、3年近く続けてもちっとも文章は上手くならないし、なにより、自家中毒というか、自分の中にある毒にあてられちゃうようなところがあって、結局辞めてしまった。
でもやっぱり、ものを書くことは好きだし、信じてもいるし、何かを期待してもいる。
書きたい。
書きたいという思いの横溢として書く。
そのうえで、
もしかしたら誰かがこの文章を見るかもしれないと思って文章を書くということ。
窓があいているということ。
それが鍵じゃないかしら。
成長と、癒しとの。
そう思って、ブログを始めてみるのよ。