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【本】『極北に駆ける』植村直己

小岩の古本屋に入って、なんだかいい古本屋だったので、記念に何か一冊買っていこうと思って手に取った。100円。

 

たまにこういう本を読むべきだと思った。驚き、興奮より先に、癒される思いがした。北極の極限的な自然と格闘する植村さん。そこにあるのは間違いなく生死をかけたサバイバルなのだけど、一方で、ある種の軽みというか、ユーモアというか、そういうものが感じられた。何故だろうかと考えると、もちろん文章から滲み出る植村さん自身のやさしさもあるんだろうが、何よりも、このサバイバルが本質的に「遊び」だからだ、という気がする。命を賭けた遊び。命を賭けた世界との戯れ。それは決して嘲笑を呼び起こすようなものではなく、むしろ、羨望、尊敬、こうありたいと思えるような世界への向き合い方なのだった。

 

世紀の壮挙「北極圏一万二千キロ」を望みつつ、心やさしく誇り高いエスキモーとの交情を深めながら生肉を食い、生死の間をさまよい、果てしないグリーンランドの大氷原3000キロに犬橇を進める冒険野郎ウエムラ!

本に挟まっていた帯の広告文。「冒険野郎」という表現のために書き写した。まさに、だ。

 

あとは、気に入った箇所も書いておく。、エベレスト登頂のためのトレーニングをしていたときの回想。

私は高度四〇〇〇メートルの山道を、登山靴をはいて毎日六キロ走り続けた。峠のうえに出ると雪をいただいたエベレストの頂上が見える。もし一日でも、私が苦しい、つらいという理由でマラソンをおこたったら、エベレスト登頂はない。チャンスもない。私はそう心に言い聞かせて走り続けた。結局私はエベレストの山頂に立った。このマラソンがなくてもチャンスはきたかもしれないし、登頂もできたかもしれない。しかし私はこの訓練なしに登頂を考えたくはない。

この訓練なしに登頂を考えたくはない。素晴らしき克己。美しき自己満足。この人の偉大さは、この自己完結的な「遊び」の精神から来ている気がする。