【本】『働くことがイヤな人のための本』中島義道

この本の何よりもいいところは、斎藤美奈子の解説を載せているところだ。中島義道の思想にまったく共感しない、共感したくもない立場としての解説だ。それを載せてくれているところが素晴らしい。読み進めていくうちに、中島義道節にどんどん引き込まれていって、読後にはちょっと過剰なほど感傷的になっている心に、「マジレス」をしてくれる。ニュートラルな気持ちで考えを整理するきっかけをくれる。

…『働くことがイヤな人のための本』はまさに「一億総中流化」が進んだ成熟社会ならではの「お悩み相談」の本なのです。しかし、著者は歴史的・社会的背景なんてよけいなこと(わたしには重要なこと)は無視し、あくまでもそれが普遍的・根源的な悩みであるかのようにふるまいます。

この本がグチャグチャして見えるのは、社会のしくみの話ぬきで社会との接し方について語ろうとする、その根本的な矛盾に由来するように思います。

 

私は何故生きているのか、何故死ぬのか、生きるとは、死ぬとは、というような、人間の「根源」に関する問いは、はたして人間にとって「根源的」なのか?哲学の起源と言われる古代ギリシャだって、ギリシャ人の中でも極一部の豊かな「自由市民」のうちの、そのまた極々一部の人間が、日常の仕事を奴隷に任せてできた「暇」でもってそういうことを考え始めたのであって、当たり前だが当時のギリシャ人がみんな哲学をしていたわけではない。それ以降の時代から現在にいたるまで、一体どれだけの人間が、哲学的・形而上的なことを考える「暇」(「自由」と言い換えてもいい)をもっていたのかと考えると、うーむ…と唸らざるを得ない。

 

キミが普段頭を悩ませ身を焦がしている、「何故生きるのか」、「何故死ぬのか」みたいな哲学的な問題は、文明の高度な発達によって生じた「暇」がもたらした、人類史的にみても極めて特殊な、現代的な、豊かな国の悩みなのであって、キミはそんなことに頭を煩わせる必要なんてないんだ。

そう言われてしまうと、しかし、それも違うんである。「考えちゃってるんだからしょうがない」。これに尽きる。こういう悩みが、限られた時代の、限られた社会の悩みであったとしても、自分の置かれた状況がその「限られた」に該当しちゃってるのだから、そして現にそういう悩みと出会ってしまっているんだから、それを取るに足らないとうっちゃるべきではない。というか、したくてもできないのだ。一度目が合ってしまったら、もう二度と目を逸らすことはできないのだ。

 

そういう意味で、中島義道の下のような決意は、自分には陶酔的な決意がこもったパンチラインとして響いてくるものがある。

三〇歳で大学院から追い出され予備校教師に納まったころ、「自分に哲学が与えられなければ、ほかに何が与えられても虚しい」というようなことが、日記に何度も書いてある。

…何度も「これでいいのか」と自分に問いかけ、「これでいい」と答えてきた。「地獄に堕ちてもこれでいい」と答えてきた。この世のほかのすべてが与えられてもこれが与えられなかったら自分は満足しないであろう、これさえ与えられれば満足だろうと自分に誓った。

「これさえあれば、他のすべてがなくてもいい」と思えるような何かが、自分にはあるのか?そういう人生を夢見て、その「何か」を捏造し、決意を模倣することに必死になっていただけではなかったか?

朦朧となってしまう。

 

喫茶店で読了した帰り道、冷静になった頭で反芻したら、直感めいたものが頭に浮かんだ。

一つの目的のために、それ以外のすべてを手段と割り切ることもできず、かといって一つの目的なんてものを否定して、目を外にだけ向けて生きていこうという決意もできない、そういう中途半端な人間は、そのどちらをも引き受けて生きなければならないんじゃないか。「生きること」を考えることも、「生活すること」を考えることも諦めてはいけないんじゃないか。どちらに対しても真摯であり続けるべきなんじゃないか。中島義道の言うことにも、斎藤美奈子の言うことにも共感し、それでいてそのどちらになることもできない人間の生き方は、そうあるべきであり、またそうあるしかないんだと思った。