【本】『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック

旅ができないから旅の本を読む。

1960年のアメリカを、58歳のスタインベックと愛犬のチャーリーが、キャンピングカーで旅をする。

 

このチャーリーとの旅について、「自分の国の真実を探して旅に出て、答えを見つけた」と語ることができたらどんなに気持ちがいいことだろう。そうしたら自分の発見したことを書き記すのは簡単だし、真実を発見して読者に教えてやったのだと思って気分よくふんぞり返っていられる。そのくらい簡単だったら良かったのだ。

しかし私の頭で覚えたりもっと深い感覚に刻んだりしてきたものは、絡み合った無数の虫みたいなものだ。ずっと以前に海洋生物の採取と分類に取り組みながら悟ったのだが、何を見つけるかはそのときの気分に深く影響されるものなのだ。自分の外部の現実であっても、突き詰めれば自分の内部と繋がりを持っているものである。

旅の中で見る風景というのは詰まるところすべて心象風景なんじゃないかという考えには身に覚えがある。アメリカの豊かさと貧しさ、希望と不安、変化と伝統、州毎の違いと共通点。そういったものに対するスタインベック老の心象風景が描かれる。今の日本にも繋がるような闇を見てはっとする瞬間もあるけれど、基調となっているのは優しさだから、ほのぼのとした気持ちでページを繰ることができる。それでいて、旅の本質について鋭く描き出している。

旅人が帰宅する前に寿命が尽きて終わってしまう旅があることは、きっと誰もが知っているのではないだろうか?

(中略)私自身の旅はというと、出発よりずっと前に始まり、帰宅する前に終わった。

旅が終わった場所も時間もしっかり覚えている。ヴァージニア州アビントン近くの急カーブで、風の強かった日の午後四時だ。前触れもなく別れの挨拶もキスもなく、旅は私からさっていってしまった。私は家から離れた場所で取り残されてしまったのだ。

私は旅を呼び戻して捕まえようとしたがー愚かで無駄なことだった。旅が終わり、もう戻ってこないのは明らかだったのだ。道は延々と続く石の連なりとなり、丘は障害物となり、木々は緑色の霞となった。人々はただの動く影となり、頭はついていても顔はないのと同然だった。道沿いの食べ物はどれもスープのような味しかしなかったし、実際にスープだって構わなかった。

ううむ。

「人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ」。

 

ところで、第三部第一章以降の文章は、それまでとはうって変わって怒りと悲しみに満ちている。スタインベック老は、ニューオリンズでの人種差別の現場を見てきたのだ。チアガールズ(黒人生徒が白人生徒と同じ学校に通うことに抗議して、黒人生徒に罵声を浴びせるおばさん集団)の姿に怒りと憎しみを隠すことができないが、彼女らを「悪」だと断ずる一歩手前で、立ち止まってしまう。そこにあるのは、罪の意識(アメリカの歴史を考えると、自分も加害者なのではないか?他人を捌ける立場にあるのか?)と、そして、人生の不条理に対する悲しみのように思えた。

レイプの疑いを持たれるのを恐れて、転んだ白人女性を助けなかった黒人青年は「私は黒人であることになれてしまってるんです」と言った。このときの青年の「傷ついてなさ」に、スタインベックはひどく傷ついてしまったのではないか。