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【本】『フィッシュ・オン』開高健

開高健が世界中をめぐって魚釣りをする。

「人間の不幸は部屋のなかにじっとしていられないことから来る」というパスカルの言葉を開高健はしばしば引用する。原因の見えない焦燥が、小説家を旅へと連れ出す。

...私は毎日、窓ぎわでウイスキーを飲みつつ、スモッグで腐って硫酸のようになっている低い夕空を眺め、原民喜の本を伏せてしまい、アラスカへ行こう、アラスカの荒野の川でサケ釣りをしよう、と思いつめていた。

逃避としての、GREAT ESCAPEとしての魚釣り。その本質はどこにあるか。

白い雲がそびえている。美風がそよぐ。陽が閃く。汚物が流れる。水が流れる。浮子を流しては投げ、流しては投げしながら、私はぶどう酒にくたびれて軟らかく重くなった腸を感じ、水の揺らめきを眺める。(中略)流れる水に私が魅せられるのもそのうごきからである。うごかない水は私をほぐし、解放し、遊ばせてはくれない。それがさそいだす連想に私はなじみすぎている。閉塞に疲れている。目のたわむれが清浄でのびのびしたうつろさをもたらしてくれる。虚無にしばらくの自由と調達があらわれてくる。目は紋があらわれるのを追っていき、消えるのを見とどけ、ふたたび同じ地点にたちもどる。その往復が単純なので、心は眼のままにうどくことができる。生を流れる川のかつ消え、かつあらわれて耐えることのない水泡に擬した隠者は無情迅速を説きながら実は明晰な、充溢した愉しみをおぼえていたのではあるまいか…

ほかに、魚が掛かった瞬間の沸騰、凝集の描写も引用したかったが、箇所が見つからないのでやめた。つまりは「忘我」なのである。流れる水と消えては現れる波紋。そこに”私”はない。ここまで書いてふと、開高健が、ーおそらく後期の作品を中心にー 一人称を一切使わずに文章を書いていたことを思い出し、それが妙に腑におちた。